「おかあちゃん、これなに?ケガ?」
モモの言葉に振り返りながら「どれ?」と声を掛けると、無言で手首を指差していたので顔を近づけて確認した。
左手首にプチッと白く、小さい痕。
「頑張った痕だね」
点滴ルート、何度も何度も差し替えた。
生まれたその日に初めてのルートを取ってから、すべて外れたのが生後195日目のこと。
しっかりしたものが左足の甲にも残っている。
点滴ルートだけじゃない。
心臓カテーテル検査では鎖骨下や鼠径部から穿刺しているし、術後のAラインもそう。
胸腔ドレーンの大きな痕は3つあるし、脇に差し替えた小さな痕は乳び胸のせいでたくさんあるから数えていない。
乳び胸は内科治療がうまくいかず、左脇を切開してクリッピング。
腕の下になるので目につきにくいし本人の視界に入るものではないけれど、薄く細い切開痕が残っている。
でもきっと、私が気づいていないものもある。
全身にたくさん。
胸骨正中切開は3回。
2回目まではきれいになっていた傷痕も、3回目の手術で太くしっかりと残ってしまった。
最近になって切開痕を指差して「ここは?」と聞くと、モモは得意気な顔で「フォンタン!」と言うようになった。
最後に受けたのは、4年前のフォンタン手術。
生まれてすぐの赤ちゃんの時、モモは元気がなかったから〇〇先生(小児科の主治医)の病院で治してもらったんだよ。
先生たちが「元気になってほしい!」って、点滴っていう薬の注射したり、ここの切った中にある心臓ってところを一生懸命治してくれて。
看護師さんたちも、モモのお世話して助けてくれてね。でも、モモが一番頑張ったんだよ。
毎日「元気の素と赤い薬 ※」を飲むのは、モモが元気にお友達と遊ぶために必要なんだよ。
飲まないとまた病院にお泊まりになっちゃう。※ 元気の素=アスピリン・アドシルカ、赤い薬=ワーファリン。
そうやって、少しずつ教えてきたこと。
手首のルート痕には触れていなかったけれど、胸腔ドレーンの痕は「がんばったあと!」と答えてくれる。
もうすぐ6歳、年長組になって理解できることが増えてきた。
来年はいよいよ小学生。
私の書いた闘病ブログやInstagramを見てくださっている方の中に、同じ病気のお子さんを7歳で亡くされた方がいて。
その時の「ご報告」の言葉が、ずっと残っている。
同じ気持ちを抱えて悩んでいた時期があったから。
自分の病気を知った時。
みんなと同じようには生きられないと知った時。
痛い、苦しい、つらい、そういう時間が増えていった時。
モモはどう感じるのだろうと。
そんなものは知らないうちに、気づかないうちに、旅立てる方が幸せなんじゃないだろうか。
それでもやはり、生き続けられる方が幸せなのだろうかと。
「病気は不幸じゃない」とか「障害は個性だ」とか、正直本人にしか言えないことだと思っていて。
例えその言葉が表面上同じだとしても中身もそうとは限らない。
と、小難しく考えてみるけれど。
「生まれた時からこの体なんだから、「そうなんだ」としか思わない」と言われる可能性もある。
「病気なのは嬉しくないけど、これが当たり前だから気にならない」と。
私には出せないその答えを、いつか自分で向き合って出していく。
その時期が来てしまうのがとても怖かった。
でも、近づいてきた。
ありがたいことに想像していた悲しい未来をひとつも叶えることはなく、とても元気な状態で今ここにいる。
相変わらず私の中に答えはない。
だからといって、以前のようにグルグルと思考を巡らせてそれを探すこともなくなった。
「これもがんばったあと?」
笑顔で聞いてくるモモに、私は傷を撫でながら頷いて「そう!これも頑張った痕だよ!」と笑顔を返した。
4つ目の手術を前にして再会した外科の主治医が、胸の傷をそうやって撫でて笑顔で「よし!」と言ってくれたことを思い出す。
2人で抱き締め合いながら「頑張ったねー!偉いねー!」と背中をポンポンして。
少しだけ涙が出そうな気持ちをそっと静めた。
モモの成長は、嬉しいと感じれば感じるほどに切なくなってしまう。
これからも、今までと変わらず一歩一歩大切にして進んでいく。
ピカピカキラキラの笑顔で貪欲に楽しんでいく。
まだまだ頑張っていこうね。